暴論4 谷町7丁目の夕日

おととしぐらいだったか、首都圏某所で行われた地方公演を見に、あるホールへ行った。舞台・劇場が複数ある結構立派なホールだったが、ちょっと早く着いたので、併設されているカフェをうろうろしていると、席に鶴澤藤蔵氏がいるのを見かけた。妙齢の和服の女性と談笑している。

 

そこは大阪ではなく首都圏であり、大阪からの追っかけとは考えにくいとすれば、東京の知人、というか要するにファンとお茶をしていたと考えるのが自然である。

 

さすがに、おあいそをどうするかまでは見なかったが、普通に考えれば、御贔屓さんが御馳走するんじゃないかな、と思うわけで。

 

と、ここまでが暴論4の話の枕である(とっかかりという意味だから、別の意味にとらないように)。

 

別の暴論でも書いたとおり、特に若手文楽技芸員の生活はカツカツだ、というのは割と知られた話である。そこで思ったのが、相撲のタニマチのようなシステムを文楽でも作れないのか、ということである。

 

いや、この記事を書こうとして初めて知ったのだが、実は相撲のタニマチの発祥って、大阪の谷町7丁目なんだそうだ(wiki参照)。文楽の聖地からも遠くないのでびっくりした。

相撲というと、近年の不祥事の影響もあってタニマチの印象もあまりよくないかもしれないが、芸術の世界にも「パトロン」という考え方がある。まあこれも、たかってるみたいなイメージが付きまとったりもするわけだが、才能を持つ若者に、生活を気にすることなく技芸に打ち込ませ、才能を伸ばす機会を与え、支援する側にも、こいつはおれが成長させたんだという喜びを提供する(独占欲を満たす)という意味で、利害が一致しているなら、ありだと思うわけだ。

 

ただ、日本では、個人→個人支援だと、年の離れた男女の下心とか、なんともキナ臭いにおいがただよいがちではある。しかし法人ならメセナ、今風に言えばCSRの一つとして、不断に行われていることも忘れてはならない。ならば個人だって、大手を振ってやってもいいではないか、と思う。(政治献金だって、個人のほうが望ましいわけで)

 

というわけで、こういうタニマチ、もといパトロン、いや、名前がまずいならば「文楽技芸員サポーター制度」とでも名付けて、若手技芸員を支えるシステムを作っちゃあダメなんだろうか。

 

もっとも、本来こういうのは、協会や芸文振が仕切ってやるものでもない。個人対個人の、ファンクラブみたいなものを、技芸員同士が競争するように作ればいいんじゃないか、という気がする。

 

しかし、私の知る限り、やはり人が人にタカるように見える支援のあり方は、かっこ悪くて表だってやりにくく、現状では進んでいないように思う。

 

たしかに、芸歴が長く、若手のホープ(40年後の人間国宝候補)である豊竹咲甫大夫氏は、WEBページを立ち上げ、チケットなどの物販やファンクラブ組織化もしているようだが、活動費の支援募集まで謳い上げているようには見えない(まあ、文楽の「イエ」出身だから、経済面のサポートは必要ないかな)。

 

いずれにせよ、個人から個人への支援の仕組みを作るなら、活動サポート(費用援助)と、ファン感謝公演(懇話会)とかをバーターでやるのがいいんじゃないかな。

 

話は変わるが、この間、今をときめく壇密嬢のテレビの特集を見ていて、壇密嬢が、芸能人は究極のサービス業であり、ファンサービスあってナンボという考えの持ち主であることを知った。文楽技芸員も同じだと思うのだ。

 

ひたすら師匠にくっついて稽古をし、舞台の上で、日頃磨いた芸を見せれば、ファンはついてくる

 

こういう考え方をしている技芸員、あるいは観客を、私は「神秘主義」と呼んでいる。伝統の技芸は、隠された秘密の技で、なかなか見れないものであり、ありがたがって見るべき、理解する側にも修練が必要、みたいな発想だと思うが、さまざまな大衆文化が乱立し、さらにTVに加えネット・スマホが当たり前の時代にそれはないだろう、と思うのである。技芸員ももっと街に出て、他流試合をするとともに(これは別稿で議論したい)、個人としてファンを増やし、生活費あるいは技芸に必要な経費のサポートも受け、本業の芸を磨く。

この好循環(上の「神秘主義」に対して、「開放主義」とでも呼ぼう)が、なぜできないのだろうか。

 

具体的な話をしよう。ある技芸員が、年会費5000~1万円を100人から集める。その対価として、年数回、会報を出したり、1回あたり1~2時間、ファンと触れ合うイベントをやることとする。(東京は、公演で上京した時)


難しい話でもないと思うが、できない理由が、きっとあるのだろう。